ともしびの花 ~日河 翔の創作手帖~

作品のお知らせや創作活動に関すること、訪ねた寺社の紹介などを綴っています。

【写真資料】二尊院②

二尊院の勅使門

こんにちは、日河 翔です。

嵯峨野の二尊院を訪ねた時の記事を上げてから、随分と時間が経ってしまいました。

 

『くれなゐ君』11回目の校正にかなり時間がかかってしまい、その後年末に風邪をひき・・・漸く元気になりました。

その間、少しずつ作業していた12回目の校正も終わり、1月中には出版できそうです。

振り返ってみれば、フォーマットに時間がかかり過ぎたとしか言いようがありません。

初めての出版は、そんなものかなと思います。何回か出版すれば慣れてきて、ルビの振り方にも悩まないで済むのでしょうね。

 

もう二尊院の記事第二弾も、話題的に古くなってしまったのですが、備忘録として追記しておきたいと思います。

 

常寂光寺と同様に、二尊院境内にも藤原定家の時雨亭跡がありますが、位置的には山の中腹というよりもう少し上のような・・・。実際にここで暮らしていたのなら、結構不便で大変だったのでは感じるエリアでした。

眺望がよく石のベンチまであって、心地よい風に吹かれながらしばし足を休ませることができました。定家さんが本当に住んでいたかどうかは分かりませんが、小倉山は落ち着く場所でした。

蜂に注意、といった看板が山道にかけてあったので、蜂が元気な季節に時雨亭跡を訪ねるのは遠慮しておこうと思いました。

時雨亭跡


総門付近には「四季庵」という茶屋があり、あまりにも足が疲れたので立ち寄りました。実は、小倉あん発祥の地だったのですが、それを知ったのは後日のことでした・・・。

平安時代弘法大師様が唐から小豆(小倉大納言)の種を持ち帰られました。それをこの地に住んでいた和三郎という菓子職人が栽培し、砂糖を加えて煮詰めて餡を作り、御所へ献上したのが小倉あんの始まりと言われています。

和三郎の努力で、小豆の栽培技術が洛西を中心に広がり、江戸時代にはお茶菓子など一般の人の口にも入るようになりました。

その時は小倉あんのぜんざいを、昼食(?)としてとても美味しく頂きましたが、もっと味わえば良かったと大後悔!どこへ行くにも、先に勉強してからでないと後悔に繋がるなとしみじみ感じます。
お店の方の対応も温かくて、ほんわかしました。またぜひ行きたいです。

四季庵

小倉あんのぜんざい

 

そう言えば、本堂にこんな窓がありました。思わず撮りたくなる窓ですよね。

すぐそこは小倉山です。立ち止まって暫く眺めてしまいました。

春の花が咲く頃までには、この道を駆け上がる少女の足音が聴こえるといいのですが。

心の耳を澄ませて、物語の風を待ちます。

本堂の窓から見える、小倉山への小径

年賀状では、友人知人にKindleでの出版予定をお知らせしました。

マイペースですが立ち止まることなく、元気で頑張っていますとお伝えするためです。

著者名と書名をお知らせしたところ、早速このブログを見つけて下さった方々もいらっしゃるようでした。辿り着いた当ブログが、活動しているのかしていないのか分からない、いわば虫の息レベルのもので、大変申し訳ない思いでいっぱいです。

今年はもう少し、何とかしたいなとは思っております・・・。

ブログ(ツイッターの方もそうですが)を見て下さっているのは、京都にご興味のある方だと感じておりますので、できるだけ取材に行った時の写真を掲載していくつもりです。

二作目の『桃花幻想記』以降は、しばらく「京都もの」執筆からは離れますが、気分転換を兼ねて寺社のレポートは続けようと考えております。

 

著書のご案内

『くれなゐ君』

常陸宮の姫君は幼いながら、都一不器量で無教養と評判だった。

紅君(くれないぎみ)という通り名に惹かれ、元服前の少年・実孝は常陸宮邸で姫君を垣間見る。
まっすぐな姫君と、不器用な貴公子のすれ違う初恋は、都の異変とともに押し寄せた運命の渦に巻き込まれてゆく。

 

「あなたを殺しはしない、決して。この身など惜しくはないのだから」

 

二人を取り巻くのは先帝の長子・一の宮の死、短命だった斎宮、奇怪な流行り病・・・。出家を望みながらも、巫(かんなぎ)の血に目覚めていく紅君は、数奇な運命をたどり始める。

源氏物語の「末摘花」を下敷きに、一人の少女を軸として、美しい情景を交えて織りなされた平安王朝絵巻。