
こんにちは、日河 翔です。
歩道のゴミ拾いを始めてから、四年目に入りました。
前職場に勤めていた頃は、本当に時間に余裕のない生活だったので、足下を見る心の余裕がまったくありませんでした。
ゴミが落ちていたのか落ちていなかったのか、記憶にないどころか視界に入っていなかったのでしょう・・・。
職を辞してからは、歩きながら空を見上げたり、木や花に視線を向ける心の余裕が生まれたのですが、足下に落ちているゴミも気になり始めたというわけです(笑)。
一度目にしてしまうと、厄介なことに「見て見ぬふりをしている自分」にも気づいてしまいます。
・・・・・・以前は時間的にどうしようもなかったけれど、今は近所のゴミ拾いくらいできないのだろうか。
そう考え、何か行動してみようという思いに突き動かされた結果。
とりあえず気になったゴミは拾えるように、まずは火ばさみを購入してみました。
心にゆとりができたとはいえ、充分な執筆時間を確保できる生活でもありませんので、「ゴミ拾いに専念する時間」を捻出しようとすると、ゴミ拾いに出かける回数はぐっと減ってしまいます。
しかし、ゴミ拾いを意識すると、途端に歩道のゴミがクローズアップされるという不思議。
無意識に目でゴミを追ってしまうのです。
この現象、思い当たる方も多いのではないでしょうか?
今や道を歩いていても、街路樹の枝先にほころぶ花より先に、ゴミを見つけてしまいます。
これがゴミ拾い最大のデメリットですね。
さて。
ゴミ拾いのために時間を作るのではなく、外へ出る時に火ばさみとゴミ袋をセットにして携帯し、歩きながら目の前のゴミを拾えば、それほど時間はかからないのではないかと思い立ちました。
正直に言うと、最初はとても恥ずかしかったです。
なぜなら・・・袋からはみ出た火ばさみを持って、電車に乗っている人。今のところ、まだお見かけしたことはありません。
しかしそれは結局、自分自身の問題でした。
最初は周囲から見られているような感覚がしていましたが、徐々にゴミ拾いに慣れてくると、それがほとんど気のせいだということが分かりました。
道行く人々は案外、周囲を見ていないようです。かつての私のように。
堂々と火ばさみを手に提げて拾い回っても、自分が空気と化して景色に溶け込んでいる感覚。
これにすっかり慣れてしまってからは、私も周囲をまったく気にしなくなりました。
ゴミを拾っていると言っても、自宅から目的地までの間、目についたゴミだけ拾うスタンスですので、町全体の美化にはほど遠い「気も心」というレベルです。
特に繁華街に近い通りでは、数時間後には新しいゴミが落ちています。
いや数時間どころか、15分後に落ちているのを見た時は、さすがにげんなりしました。
人通りが多い場所だから、そんなものでしょうか・・・。
ある時、通りすがりの方に声をかけられました。
最近は門掃きをする人が減ったのかな、といったことを口にしておられた記憶があります。
そんなことはないと思いますと否定しておきましたが、それ以降、もう少し気をつけて道を見るようになりました。
たいていの民家や店舗、マンション、ホテル、商業ビルは、朝か夕方に敷地周辺を掃除していらっしゃると思っています。
門掃きをしているところに出くわしたのは数回ですが、もし門掃きをまったくしていなければ、道のゴミはこんなものでは済みません。
外国人観光客の方が「ゴミ箱がほとんどないのに、日本の通りはほぼゴミが落ちていなくてキレイ」とWebで発信していらっしゃるのを時々拝見しますが、逆に「日本の通りは聞いていたよりもゴミが落ちていて、それほどキレイではなかった」というご意見もお見かけします。
実際のところは、その道を目にするタイミングによるのでしょうね。
ひとかけらのゴミも残さないように拾い尽くしても、数時間後に同じ道を通ると、元の20%程度のゴミはまた落ちています。
「いつ、そこを見るか」によります。
地域によって頻度は異なるでしょうが、『日本全国どこでも、門掃きは今も変わらず行われている』ことを、あえて書き記しておきたいと思います。
時折、何のために自分はゴミを拾っているのだろうと考えることがあります。
単に気になるという、潔癖性に近い感覚によるものなのか?と。
おそらくそのとおりなのでしょうが、町の美化というよりも防犯に主眼を置いているためかもしれません。
「割れ窓理論」の実践をしてみようかと思っています。
軽犯罪の取り締まり強化と比べると、ゴミ拾いの防犯効果は薄そうではありますが・・・。
それでも拾わないよりはましだと思い、地道に拾い続けています。
そして、もっと突きつめると「見て見ぬふりをして、通り過ぎるのが嫌だから」という理由に行き着きます。
ゴミが視界に入っても、目を逸らして通り過ぎていかなければならないのは、落ち着かないものです。
一度拾ってからは、余計にその感覚が強くなりました。
ゴミ拾いをしていると、時折、労いの言葉を頂くことがあります。
その通りの近くにお住まいの方。
工事現場の警備員さん。
観光客の方々。
近づいてきた観光客の外国人女性に、「アリガトウ」とお辞儀をされた時には驚きました。
とっさに会釈はしたものの、「You're welcome」と口にする前に女性は立ち去ってしまいました・・・。
外国の方に限らず、声をかけて頂いた時に、何か発声できるようにしておかなければと反省した一件でした。
ゴミを拾っている時は没頭してしまうので(短時間で、しかも拾い残しがないようにという方針であるため、かなり必死です。目が血走っているかもしれません)、ふいにお声がけ頂くと、我に返るのが遅れる時が多々あります。
それでも、ちょっとしたお声がけに心が温まりますので、感謝しております。
周囲に人がいてもいなくても、昼間でも夜でも関係なくゴミを拾う日々。
さしずめ、町の黒衣(くろご)とでも申しましょうか。
普段歩く速度に比べると時間がかかりますが、座禅を組んでいるかのような「無」の境地を味わえる気がしますので、ゴミ拾いをぜひおすすめいたします!

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『 くれなゐ君 』
常陸宮の姫君は幼いながら、都一不器量で無教養と評判だった。
紅君(くれないぎみ)という通り名に惹かれ、元服前の少年・実孝は常陸宮邸で姫君を垣間見る。
まっすぐな姫君と、不器用な貴公子のすれ違う初恋は、都の異変とともに押し寄せた運命の渦に巻き込まれてゆく。
「あなたを殺しはしない、決して。この身など惜しくはないのだから」
二人を取り巻くのは先帝の長子・一の宮の死、短命だった斎宮、奇怪な流行り病・・・。出家を望みながらも、巫(かんなぎ)の血に目覚めていく紅君は、数奇な運命をたどり始める。
源氏物語の「末摘花」を下敷きに、一人の少女を軸として、美しい情景を交えて織りなされた平安王朝絵巻。
『 詩集 砂の海 』
著者の闘病期のピークであった19歳から22歳の詩を中心に、17歳から23歳頃までの作品から73編を収録しました。
生と死のはざまで見上げた空の色。
当たり前のことなど何一つないからこそ、届けたい言葉がある。
著者が紡ぐ物語の、原点とも言える詩集です。
『当時私は仏典に惹かれ、玄奘や法顕などの求法僧に共感を抱いておりました。
とりわけ、十七年にも及ぶ命がけの旅に出た三蔵法師・玄奘の存在は、憧れでもありました。
玄奘が辿った中央アジアの旅路を、闘病の日々に投影していたのでしょう。
また、郷土史に心を寄せるあまり、若くして命を散らせた方々の想いに同調し、輪廻というものにとらわれていた時期であったとも言えます。
私が作ったつたない詩は、失われた小さな物語と幻のようにかすむシルクロードに、自分の困難を重ね、乗り越えてゆく強さを探し続けた歳月そのものです。
自分の詩に、人の心を慰めたり寄り添ったりする力があるとは、決して思いません。
全く同じ環境、同じ病状でない限り、本当にその人の苦しみを理解することはできないでしょう。
しかし、困難な道を一人で歩いているあなたに、これらの未熟な詩を届けたいのです。
何もできないことをもどかしく思いますが、それでも、懸命に今を生きるあなたのために、私は種をまきたい。
あなたの歩く道に、いつも野の花が咲くように――。
あなたはきっと、自分自身の「砂の海」を越えてゆける。
そう信じて、これらの詩をあなたに捧げます』
(前書きより抜粋)












































