
こんにちは、日河 翔です。
現在、細々と長編ファンタジーを書き続けております。
長編と言いましても、23万字くらいに収まりそうな作品です。
長編小説の文字数に定めはないようですが、だいたい12万字以上を指すことが多いかと思います。
短編小説は4千~4万字、中編小説は4万~12万字くらいでしょうか。
自分でも今まさに実感しているところですが、長編小説のハードルは確かに高いと思います。
単純に、ゴールが遠い。
それだけ膨大な時間がかかります。
物理的にはもちろんですが、心理的なハードルが高いのです。
執筆をマラソンに例えるとしっくりきます。
とりわけ長編小説は、フルマラソンの様相を呈しています。
このマラソンコースは山あり谷あり、障害物ありです。
今、コースの後半を走って(歩いて、とも言えるスピードです)いるところですが、おそらく誰の参考にもならないマラソン記録を、ここに書き留めておきたいと思います。

本文とは何の関係もないのですが、癒し(?)として花の写真を。帰省した時に、紫露草を撮ってきました。
参加者ゼロのマラソンコース。
誰かが一緒に走っていると、目標にして頑張れたり、心細さを紛らわせることができるのかもしれません。
しかしながら、前を向いても後ろを向いても、尾崎放哉の心持ちで・・・咳をしても一人。
マイペースで走るためにはちょうどいいのですが、いつでも脱落できるのが難点です。
そして私が完走しなくても、そもそも走らなくても、誰も困らないマラソンなのです。
ゴールが遠すぎて、スタートをきる勇気が出ない。
スタート地点をウロウロと徘徊する。
走ろうと思ったことそのものが間違いではないかと、自問する。
こうしてスタート地点の目前で、長らく足踏みをしてしまうというのが第一関門ですね。
とりあえず走ってみようと、のろのろと1万字。
スタート地点はすぐ後ろ。帰った方がいいかもしれないと、気になって何度も振り返ってしまいます。
2万字走ってみましたが、道が間違っているような気がして結局戻ります。
そして再スタート。
コースに道標はないので、少し走っては立ち止まって方位を確認し、大雑把すぎる地図を広げます。
3万字、4万字と進んでも、この道で合っているのか絶えず不安。
癒やしを求めて、物語の景色ばかりに目がいきます。
5万字になっても、まだ引き返せるのではないかと、往生際の悪いことを考えていました。
6万字あたりまで来ると、振り返ってもスタート地点が見えなくなっているので、もはや引き返せないと心細くなります。
前を向いて進むしかないというのに、遠すぎる道に立ちすくんで逡巡。
このあたりが第二関門でしょうか。

これも帰省した時に撮影した、今年の女郎花です。
ここからが、マラソンコースの正念場です。
「読まれない本に価値はない」
「誰にも読まれない作品は、存在していないのと同じ」
これらは、SNSでは時折目にします。
書き手の嘆きである場合が多いですが、読み手の言葉として見かけることもあります。
自分では気にしていないつもりでも、一番の障害物になり得るということを、今回身をもって知りました。
たとえ誰にも読まれないとしても、文学フリマさんがその定義としておられるように、「自分が文学と信じるもの」を出し続ける。
ただ、それだけのことなのです。
ご縁があれば、読まれることもあるでしょう。
自分の中で結論が出ているにもかかわらず、これらの言葉が目の前にくり返し現れるのは、やはり心のどこかに迷いがあるのでしょうね。
7万字書いても、8万字書いても、魔のささやきが度々聞こえました。
不毛な時間の使い方をしているのではないか、と。
9万字あたりがピークだったような気がします。
10万字を超えると、本当にわずかずつですが、自分の中の感じ方に変化が現れ始めました。
このコースを走り終えたら、休むことなく次のマラソンの準備を始めます。
同じコースを走ることは、もう二度とないのです。
そう思えば、一行ずつ手探りでゆっくり進む執筆スタイルについても、これでいいのではないかと感じます。
一歩ずつ大事に歩いた足跡が、形として残るのは、素敵なことなのかもしれません。
11万字、12万字になると、迷いを誘うささやき声が小さくなっていきました。
自分のために書こうとすると、1行も書けなくなってしまう性質なので、これまで作品自体の命のために書いてきました。
あくまで自分は黒衣に徹し、作品が命を得て自分の手から離れていくのを、ただ静かに見守るだけだと考えていたのです。
13万字を超え、もしかすると執筆は、自分自身の心を成長させる作用もあるのかと思うようになりました。
これは、思いがけないギフトでした。
膨大な時間を一方的に捧げるだけのものだと思っていたので、自分のためにもなるということに、何だか申し訳ないような戸惑いを覚えたものです。
14万字、15万字と進むにつれて、この思いつきは徐々に確信へと変わっていきました。
16万字にもなると、ささやき声はほとんど聞こえません。
ひたすら手足を動かして走って(ほふく前進して)いると、もはや自分の喘鳴しか聞こえないというのが実際のところです。

京都・三条烏丸の百日紅は見頃になりました。
白や濃いピンクの百日紅も好きですが、こういう優しい色もいいですね!
これから長編小説に挑戦してみようかな、という方に対して言えるのは、10万字までは心理的に大変かもしれませんが、それを超えると心境に変化が生まれますよ、ということでしょうか。
コースの途中で脱落しないように、SNSでは1万字ごとに到達を書き留めています。
今どの地点にいるか宣言することで、退路を断っているつもりです。
撤退は自由だからこそ、何らかの対策をしておかないと確実に脱落してしまいます。
幸いブログやSNSで繋がって下さる方々による、温かい見守りのお陰をもちまして、未だに完走を目指して走ることができております。
(本当にありがとうございます!!)
先日17万字にたどり着き、淡々と18万字へ向かっています。
初稿を終えても、改稿と校正を始め、二稿、三稿、四稿・・・・・・と完走までの道のりはまだ遠いのが現実です。
「完走」と言えるのは、発売開始を確認した時点ですね。
次作に取りかかる前に、”ひとりお疲れ様会”をしようと、今から楽しみにしています。
実はお酒を一滴も飲めないので、カフェで甘い飲み物を。
甘党ではあるのですが、執筆や校正作業をする時は、甘みを加えないコーヒーだけ注文しています。
なので完走した時くらいは、甘い物を自分に許そうかと。
お読み下さっている皆様への感謝を込めて、ブログとSNSの画面上で、ささやかに「乾杯」できる日を楽しみに、たゆまず走り続けたいと思います。
貴重なお時間をいただき、目を通して下さってありがとうございました。

琵琶湖のほとりにて。松の木陰は風が吹き渡り、思いのほか涼しく感じました。
<著書のご案内>
『 くれなゐ君 』
常陸宮の姫君は幼いながら、都一不器量で無教養と評判だった。
紅君(くれないぎみ)という通り名に惹かれ、元服前の少年・実孝は常陸宮邸で姫君を垣間見る。
まっすぐな姫君と、不器用な貴公子のすれ違う初恋は、都の異変とともに押し寄せた運命の渦に巻き込まれてゆく。
「あなたを殺しはしない、決して。この身など惜しくはないのだから」
二人を取り巻くのは先帝の長子・一の宮の死、短命だった斎宮、奇怪な流行り病・・・。出家を望みながらも、巫(かんなぎ)の血に目覚めていく紅君は、数奇な運命をたどり始める。
源氏物語の「末摘花」を下敷きに、一人の少女を軸として、美しい情景を交えて織りなされた平安王朝絵巻。
『 詩集 砂の海 』
著者の闘病期のピークであった19歳から22歳の詩を中心に、17歳から23歳頃までの作品から73編を収録しました。
生と死のはざまで見上げた空の色。
当たり前のことなど何一つないからこそ、届けたい言葉がある。
著者が紡ぐ物語の、原点とも言える詩集です。
『当時私は仏典に惹かれ、玄奘や法顕などの求法僧に共感を抱いておりました。
とりわけ、十七年にも及ぶ命がけの旅に出た三蔵法師・玄奘の存在は、憧れでもありました。
玄奘が辿った中央アジアの旅路を、闘病の日々に投影していたのでしょう。
また、郷土史に心を寄せるあまり、若くして命を散らせた方々の想いに同調し、輪廻というものにとらわれていた時期であったとも言えます。
私が作ったつたない詩は、失われた小さな物語と幻のようにかすむシルクロードに、自分の困難を重ね、乗り越えてゆく強さを探し続けた歳月そのものです。
自分の詩に、人の心を慰めたり寄り添ったりする力があるとは、決して思いません。
全く同じ環境、同じ病状でない限り、本当にその人の苦しみを理解することはできないでしょう。
しかし、困難な道を一人で歩いているあなたに、これらの未熟な詩を届けたいのです。
何もできないことをもどかしく思いますが、それでも、懸命に今を生きるあなたのために、私は種をまきたい。
あなたの歩く道に、いつも野の花が咲くように――。
あなたはきっと、自分自身の「砂の海」を越えてゆける。
そう信じて、これらの詩をあなたに捧げます』
(前書きより抜粋)