こんにちは、日河 翔です。
昨年の春、京都の愛宕山中にある月輪寺(つきのわでら)を登拝した際の、備忘録第二弾です。
まず、登拝するために何を準備したらよいか分からず、インターネットでトレッキングなどの情報を集めることから始めました。
ただ、元々トレッキングやハイキングの趣味は、全く持ち合わせておりません。
登山にしか使えないものは後々困ると思い、普段の生活で使用しているものを代用することにしました。
【持参した物】
◆マウンテンパーカー
→山中での小雨と防寒対策のため、出発時から羽織っていきましたが、登山道の中盤あたりで暑くて脱ぎました。
下山時は、木陰では涼しかったのでまた羽織りました。
◆日除け帽子
→登山口から境内までの間に、木陰のない場所もありましたので、やはり必要かと・・・。
行き交う方々は皆、帽子を被っておられました。
◆500mlペットボトルの飲料4本(ミネラルウォーター)
→水分補給と、転倒した時に傷口を洗うため、そしてお寺様に納めるために持参しました。
ありがたいことに怪我一つなく、お寺には2本奉納できました。
◆昼食(パン)
→不測の事態に備え、いつもの昼食より多めに持って行きました。
空腹を感じたわけでもないのに、休憩時に気分転換のため少し食べ、後悔しました。
軽い胸やけが・・・。
◆熊鈴
→本物の熊鈴を購入しても普段使うことがないので、自宅にあったキーホルダーや根付の鈴をまとめて一つにし、バス停を降りてからリュックに付けました(賑やかな音がするので、公共交通機関で付けるのは憚られるため)。
まるで神楽鈴のように鳴り響いたためか、小動物の影すら見かけませんでした・・・。
◆雨傘
→杖の代用品として持参しましたが、特に往路は大活躍してくれました。
ただ、傘でも杖でも2本は必要だと痛感。
次回は折りたためる軽いトレッキングポールを2本、購入しようと決めました。
山道の登りやすさが全然違うと思います!
◆カーディガン
→愛宕山中と京都市街では、10度くらいの温度差があると聞いていましたので、到着後に寒ければパーカーの下に羽織ろうと、リュックに入れました。
境内は涼しかったですが、肌寒いほどではなく、結局使うことはありませんでした。
◆レインコート
→晴れた日を選んで登拝しましたが、山の天気は変わりやすいと言います。
念のため持って行きました(帰宅するまで雨は降りませんでした)。
◆スニーカー
→登山靴を履くのが正解なのでしょうが、歩きやすさを重視して、慣れない重い靴より手持ちのスニーカーを選びました。
途中で、靴裏のソール(クッション?)が両足とも剥がれてしまうアクシデントがありました。
やはり靴底は厚い方が歩きやすいと、痛感した次第です(笑)。
◆ゴミ袋
→道中で軽食を取る可能性を考え、ゴミ袋を携帯しました。
参道はひとかけらのゴミさえ落ちていない、とてもきれいな道でした。飴などは持って行きませんでしたが、食べる習慣のある方は、包み紙を落とさないよう注意が必要だと思います。
◆携帯電話のバッテリー
→山中で一か所、携帯電話の電波が届くという立て札を目にしました。
実際通話には使いませんでしたが、写真を撮るためにスマホの電力を消費しましたので、念のため緊急時用にバッテリーが必要かと思いました。
◆絆創膏、消毒液、湿布
→念のため持参しましたが、一度も転ばず下山できました。
◇バインダー(決裁板)
→思い浮かんだ文章を書き留めてこようと思い、メモしやすいようにバインダーを購入しました。結果、これだけが不要な荷物に・・・。
嵐山駅でバスを待っている間しか、文章スケッチをする余裕がありませんでした。
時間的にも、体力的にも・・・。
外出時はできるだけ余計な物を持って行かない、と改めて自分にも言い聞かせています。
このように、準備物を箇条書きしてみると・・・意外に少ないですね。
上述の他、御仏前にお供えする菓子折を持参しました。
季節によって、虫対策用品や防寒グッズが必要になってくると思います。
この備忘録のタイトルが「登拝記」であるにも関わらず、登り始めるところまでなかなか辿り着いておりませんが・・・。
続きは、月輪寺登拝記(3)でお会いしましょう。
<著書のご案内>
『 くれなゐ君 』
常陸宮の姫君は幼いながら、都一不器量で無教養と評判だった。
紅君(くれないぎみ)という通り名に惹かれ、元服前の少年・実孝は常陸宮邸で姫君を垣間見る。
まっすぐな姫君と、不器用な貴公子のすれ違う初恋は、都の異変とともに押し寄せた運命の渦に巻き込まれてゆく。
「あなたを殺しはしない、決して。この身など惜しくはないのだから」
二人を取り巻くのは先帝の長子・一の宮の死、短命だった斎宮、奇怪な流行り病・・・。出家を望みながらも、巫(かんなぎ)の血に目覚めていく紅君は、数奇な運命をたどり始める。
源氏物語の「末摘花」を下敷きに、一人の少女を軸として、美しい情景を交えて織りなされた平安王朝絵巻。
『 詩集 砂の海 』
著者の闘病期のピークであった19歳から22歳の詩を中心に、17歳から23歳頃までの作品から73編を収録しました。
生と死のはざまで見上げた空の色。
当たり前のことなど何一つないからこそ、届けたい言葉がある。
著者が紡ぐ物語の、原点とも言える詩集です。
『当時私は仏典に惹かれ、玄奘や法顕などの求法僧に共感を抱いておりました。
とりわけ、十七年にも及ぶ命がけの旅に出た三蔵法師・玄奘の存在は、憧れでもありました。
玄奘が辿った中央アジアの旅路を、闘病の日々に投影していたのでしょう。
また、郷土史に心を寄せるあまり、若くして命を散らせた方々の想いに同調し、輪廻というものにとらわれていた時期であったとも言えます。
私が作ったつたない詩は、失われた小さな物語と幻のようにかすむシルクロードに、自分の困難を重ね、乗り越えてゆく強さを探し続けた歳月そのものです。
自分の詩に、人の心を慰めたり寄り添ったりする力があるとは、決して思いません。
全く同じ環境、同じ病状でない限り、本当にその人の苦しみを理解することはできないでしょう。
しかし、困難な道を一人で歩いているあなたに、これらの未熟な詩を届けたいのです。
何もできないことをもどかしく思いますが、それでも、懸命に今を生きるあなたのために、私は種をまきたい。
あなたの歩く道に、いつも野の花が咲くように――。
あなたはきっと、自分自身の「砂の海」を越えてゆける。
そう信じて、これらの詩をあなたに捧げます』
(前書きより抜粋)