こんにちは、日河 翔です。
昨年の春、京都の愛宕山中にある月輪寺(つきのわでら)を登拝した際の、備忘録第四弾です。
前回の記事では、愛宕神社の二ノ鳥居前から、月輪寺の参道へ進んだところで終わりました。
さて、これからしばらく本当の(?)登拝記です。
月輪寺へは最寄りのバス停<清滝>から、徒歩で約2時間かかります。
途中で大体どのくらいの位置にいるのか把握するため、常に時計を確認していました。
○○分経った、そろそろ登山口が見えてくるはず。
あと○○分歩けば、たぶん到着するはず・・・・・・いう具合です。
そうしないと、気持ちが先に負けてしまうかもしれませんので・・・。
そして、三月に送って頂いた月輪寺様の御守を首にかけて。
体力に甚だ自信がないために、大袈裟ですが、覚悟を決めて出発しました。
月輪寺登り口までは川沿いのなだらかな道が続きますが、しばしば立ち止まってしまうのは、眼下に清滝川が見えるからです。
道の傾斜がゆるやかなのもあって、5分おきに足を止めてしまいました!
自覚してはいますが、私は「川を見るのが好き」な人間です。
登拝した日は快晴で、川面が日の光にきらめいてとても美しかったです。
月輪寺まで平均2時間かかるのは、景色が美しすぎて、皆さん写真を撮るために度々立ち止まってしまうからでは?と思いました。
実際に、時間がかかる理由の一つなのでしょうね。
月輪寺への参道は、当然と思われるかもしれませんが、最初から最後までひとかけらのゴミもありませんでした。
でも、決して当然ではありません。
ゴミを拾い、道を歩きやすく整えて下さる方々がいらっしゃるのです。
本当に、心から感謝せずにはいられません。
そんな美しい道を歩いていると自然に、自分がつまづいた木切れや石を、道の端にそっと移動させるようになりました。
後から登拝される方が、少しでも歩きやすいように。
参道で目を見張ったのは、咲き誇る野生の藤です。
実は、藤の花が大好きなのです。
Amazon サイトにおける著者ページや、SNS(X)のプロフィールアイコンも藤にしているほどに。
季節的には月輪寺の『時雨桜』(注)も散り、天然記念物の本石楠花も見頃を過ぎていることを承知で登ったので、思いがけない嬉しい出来事でした。
(注)
『時雨桜』とは、月輪寺境内にある、親鸞上人のお手植えと伝わっている桜です。
白花一重の山桜で、4月から5月にかけて葉から雫を落とす、とても不思議な木なのです。
親鸞上人が流罪になった際、法然上人との別れを惜しんで、桜を通して涙を流しているのだとも言われます。現在の時雨桜は3代目で、樹齢80年余りとのことです。
清滝川のせせらぎを聴きながら、ゆるやかな坂道を上ってゆくと、やがて道が分かれました。
川沿いの参道は、杉の木がそそり立つ山へと向かっていきます。
清滝川との別れは寂しく、後ろ髪を引かれる思いで進みました。
かつて台風で倒れたと思われる杉を見下ろしつつ、足早に歩いていると、段々暑く感じるようになりました。
ここからは、マウンテンパーカーは不要でした。
ついに、「月輪寺登り口」と書かれた小屋に到着。
ここから分岐した左側の道へ川を遡るように辿ると、「空也の滝」に着きます。
平安時代の僧・空也上人(903年~972年)の修行場であったことから、「空也の滝」と呼ばれるようになったと伝えられています。
高さ約12m、幅約1mで、京都近郊では最大級の滝。
元々この滝は、月輪寺の境内地でした。
白状すると、今回の登拝で「引き返そうか」と逡巡した場所が、この空也の滝でした。
登り口への分岐点から滝まで5分程度だと勝手に想像していたためで、思ったより距離がありました。
傾斜はゆるやかながら、岩の階段を上っていかなければなりません。
ここで体力と時間を消耗していいのか?と、途中で何度か立ち止まり・・・
せせらぎを聴き、大好きな川の傍を歩いているというのに、この時は気もそぞろでした。
滝に辿り着けた時は、本当にほっとしました。
八大龍王社の鳥居の奥にとどろき落ちる、美しい滝。
しばし呆然と見惚れずにはいられませんでした。
引き返すことなく、こうしてお会いできたことが本当にありがたいと感謝しました。
平安の昔から、そして今もなお行者の方々が滝行をなさっておられます。
もっと長く留まりたかったくらいですが、午前中にお寺へたどり着かなくてはなりません。
無事の登拝を祈念してから、月輪寺に向けて出発しました。
<著書のご案内>
『 くれなゐ君 』
常陸宮の姫君は幼いながら、都一不器量で無教養と評判だった。
紅君(くれないぎみ)という通り名に惹かれ、元服前の少年・実孝は常陸宮邸で姫君を垣間見る。
まっすぐな姫君と、不器用な貴公子のすれ違う初恋は、都の異変とともに押し寄せた運命の渦に巻き込まれてゆく。
「あなたを殺しはしない、決して。この身など惜しくはないのだから」
二人を取り巻くのは先帝の長子・一の宮の死、短命だった斎宮、奇怪な流行り病・・・。出家を望みながらも、巫(かんなぎ)の血に目覚めていく紅君は、数奇な運命をたどり始める。
源氏物語の「末摘花」を下敷きに、一人の少女を軸として、美しい情景を交えて織りなされた平安王朝絵巻。
『 詩集 砂の海 』
著者の闘病期のピークであった19歳から22歳の詩を中心に、17歳から23歳頃までの作品から73編を収録しました。
生と死のはざまで見上げた空の色。
当たり前のことなど何一つないからこそ、届けたい言葉がある。
著者が紡ぐ物語の、原点とも言える詩集です。
『当時私は仏典に惹かれ、玄奘や法顕などの求法僧に共感を抱いておりました。
とりわけ、十七年にも及ぶ命がけの旅に出た三蔵法師・玄奘の存在は、憧れでもありました。
玄奘が辿った中央アジアの旅路を、闘病の日々に投影していたのでしょう。
また、郷土史に心を寄せるあまり、若くして命を散らせた方々の想いに同調し、輪廻というものにとらわれていた時期であったとも言えます。
私が作ったつたない詩は、失われた小さな物語と幻のようにかすむシルクロードに、自分の困難を重ね、乗り越えてゆく強さを探し続けた歳月そのものです。
自分の詩に、人の心を慰めたり寄り添ったりする力があるとは、決して思いません。
全く同じ環境、同じ病状でない限り、本当にその人の苦しみを理解することはできないでしょう。
しかし、困難な道を一人で歩いているあなたに、これらの未熟な詩を届けたいのです。
何もできないことをもどかしく思いますが、それでも、懸命に今を生きるあなたのために、私は種をまきたい。
あなたの歩く道に、いつも野の花が咲くように――。
あなたはきっと、自分自身の「砂の海」を越えてゆける。
そう信じて、これらの詩をあなたに捧げます』
(前書きより抜粋)