こんにちは、日河 翔です。
最近、「何のために(小説を)書くのか」についての記事を見かけました。
創作活動をしている方は、誰しも一度は抱く悩み、あるいは不安なのではないでしょうか。学生時代でしたら、なおさら。
楽しいか、楽しくないか。
それが創作の分かれ目、といったことが記事には書かれていました。
楽しければ書き続ける。楽しくなくなれば筆を折る。実にシンプルですね。
このような考え方ができるのは、とても幸せなことなのではないかと、ある種の眩しさを感じました。
たとえ読者が一人になっても、待っていてくれる人がいるなら、自分は書き続ける。
学生時代は、そう思っていました。
ただこれは、完全に読者がいなくなると、もう続けることができないのです。
それでも捨てきることができず、今に至った理由を考えてみました。
残念ながら、楽しいからというわけではありません。いつか、もっと気楽に、自分の楽しみのために書く日が来るのでしょうか・・・。今世において書くべきものを書き終えたら、そんなふうに思える日が来るのかもしれませんね。
今はただ、作品そのもののために書いている、という感覚です。
たとえて言うなら・・・。
あるところに、農夫がいました。
農作業の傍ら、山で拾った木切れで生活用品を作ったり、彫り物をして暮らしていました。農夫は仏師でもなければ、修行した彫刻家でもありませんでした。
ある日農夫は、部屋の片隅に無造作に置かれた、集めた木切れにふと目をやりました。何か視線らしきものを感じたからです。
何か気になる。気のせいかな。そう言えば、今年の干支はうさぎだったから、あの中の木でうさぎでも作ってみよう。
うさぎを彫ったとしても売ろうとも思わず、できあがったら村のお地蔵様の足下にでも置いてみよう・・・喜んで下さるかもしれないと考え、農夫は木切れに彫刻刀を入れました。
うさぎ・・・うさぎ。農夫はこれといって技術も持ち合わせておらず、ただ無心にうさぎを彫り出そうとしていました。
「うわぁぁぁぁ、何だこれは!」
うさぎを彫っていたつもりなのに、木の中から少し出てきたのは、荒削りの仏像か神像の一部にも見えます。
農夫は驚き、畏れ、木切れから離れました。彫り始めた木片には布をかけて見えないようにし、きっと気のせいにちがいないと呟きながら農作業に精を出しました。
うさぎのことはすっかり忘れたある日、ふと部屋の片隅を振り返りました。
何か視線らしきものを感じたからです。
何か気になる。気のせいかな。恐る恐る布を外してみると、うさぎを彫ろうとしていたのかもしれない木が出てきました。
ああそう言えば、年内にうさぎを彫っておかなくては。
農夫は再びうさぎを彫り始めました。
「うわぁぁぁぁ、何だこれは!」
またしても、うさぎではない何かが出てこようとしています。農夫は恐れおののき、木切れを遠くの山中に置いてきました。これで一安心。
気を取り直して、家にあった別の木切れでうさぎを彫り始めました。
「うわぁぁぁぁ!!」
またしても、うさぎではない何かが出てこようとしています。農夫は家にあった木片をすべて、別の山奥へ置きに行きました。そして彫刻刀さえも、床下に埋めてしまいました。
農夫は長い間逃げ回り、彫刻刀の使い方さえも忘れてしまいました。
しかしある日、道に古木が倒れているのを見たのです。農夫は自分が、倒木に呼ばれているような気がしました。
これを彫れば、きっとうさぎではないものが出てくる。それはありがたい仏像でも、神像でもない。ちゃんとした仏師が彫れば、ありがたい仏様になるのかもしれない。
でも仏師は彫り出す木を選ぶから、この倒木が選ばれることはない。
でもこの木から出ることを待っているものがある。それは、農夫自身が世に伝えたいものでも何でもない。農夫と木はまったく別のものだから。
農夫はついに観念して、錆びた彫刻刀を出し、「うさぎ」を彫り始めました。
できあがったものをお地蔵様の足下に置くと、通りかかった村人が声をかけます。
「一生懸命作ったんだねえ。それはタヌキ?ええっと・・・だるまかな?」
「たぶん、うさぎ」
農夫は笑って答えました。それは、タヌキにも、だるまにも、仏像にも見えるうさぎでした。
長い例えで、申し訳ございません。
木や石の中から出てくること、命を得ることを待ち続けている作品(もの)のために、観念して彫り出す。私にとって書くというのは、このような感覚に近いです。
何のために書くのか、戸惑っている方がおられたら、今書くことが楽しいと感じられなくても大丈夫とお伝えしたいです。どんなに時間がかかっても、ずっと待っているものをぜひ彫り出してあげて下さい。それは他の誰でもない、あなたを待っているからです。
このごろは、上記の考え方に加え、義憤に似た感情も創作の動機になることが分かりました。
歴史上不遇な扱いを受けてきた人物がいて、誰か才能のある作家に、その人物を適切に描いた小説を出して欲しいと願った場合。
誰も書いてくれず、さらに追い打ちをかけるような内容の小説が出回った場合。
もういい、自分で書く。このような気持ちになることは、人情ではないでしょうか。
あくまで例えですが、誰が書かなくても私が書く、という強い気持ちが出てくるものですね。年月が経つと、この気持ちも薄らいでくるかもしれませんので、忘れないように書き留めておきます。当ブログは、既に備忘録と化していますね(笑)。
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